2026-05-03

銀の匙

中 勘助

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中勘助により書かれた自伝的小説で、彼の家庭は裕福ではありましたが、病弱に生まれてしまったの生い立ちを細かく書き連ねた作品です。この小説で印象深いのは、子供の心情の精緻な描写です。大抵の人は子供の頃の記憶はあっても、そのとき感じた気持ちを忘れがちになってしまいます。これは、人が色々なことを知って、社会に慣れていくからであり、それが普通なのでしょう。しかし、子供のような繊細さを失いたくないと思いつつ、気がつけば失ってしまった方もいるのではないでしょうか。子供の気持ちを忘れてしまった人、あるいは思い出したい人にお勧めしたい作品です。 以下に、特に印象に残った部分を抜粋しました。

前編

十四

 生れつきの虚弱のうへに運動不足のため消化不良であった私は、蜂の王様みたいに食ひ物を口に押しつけられるまでは食ふことを忘れてゐて伯母さんにどれほど骨を折らせたかわからない。羊羹のあき箱に握飯をつめ伊勢詣りといふ趣向で、伯母さんが先に立って庭の築山をぐるぐるまはり歩いたあげく石燈籠のまへで柏手をうちお詣りをして、松の蔭にある石に腰をかけてお弁当をたべたこともあった。またあるときは妹や乳母もいっしょに待宵の咲いてる原へ海苔まきをもっていって食べたこともあった。杉や榎や欅などの大木が立ちならんだ崖のうへから見わたすと富士、箱根、足柄などの山山がかうかうと見える。私はいつになく喜んで昼飯をたべてたのに折あしくむかふから人がきたものですぐさま箸をはふりだして もう帰る といひだした。生きもののうちでは人間がいちばん嫌ひだった。

三十三

 あくる朝私は羽織袴で父といっしょに学校の門をはひった。そして先生たちのゐる部屋へつれてゆかれたが、そこには硝子障子のはまった戸棚のなかに地球儀や、鳥や魚の標本や、珍しい獣の掛け図や、心をひくものが沢山あった。――これらはみな後におぼえた名である。――父が私の脳のわるいこと、体が弱くて臆病なことなどこまごまと話すのが恥しくてならない。それをきいて人の顔をじろじろ見ながらうなづいてた先生はもの柔(やはらか)に
「あなたの年はいくつ」
「あなたの名は」
「お父様のお名は」
「お家は」
といろいろなことを尋ねた。そんなことは前から家で教はってあるし、先生の案外やさしいのに安心してどうやら無事に返事ができた。先生は脳が悪いときいてばかとでも思ったのかさまざまなことをききためしたのち
「これなら結構です」
といって入学を許してくれた。その日はそれなり帰って姉たちに学校でのお行儀や、お辞儀のしかたや、鞄のびぢやうのかけかたなど教はって暮した。そして次の日には桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけぬ鞄をはすにかけてなんともいへない混乱した気もちをしながら伯母さんに手をひかれて学校へいった。この不慣れな様子を人に見られるのが恥しいのとまだ知らぬ学校生活の心配とに小さな胸を痛めて自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。姉たちは私を教場へつれていっていちばん前の机へ腰かけさせた。それは尋常一年の乙の級で、おなじ一年のうちでも年弱な者や頭の悪い者をいれるところだった。

三十八

 私はそのじぶんから人目をはなれてひとりぼっちになりたい気もちになることがよくあって机のしただの、戸棚のなかだの、処かまはず隠れた。そんなところにひっこんでいろいろなことを考へてるあひだいひしらぬ安穏と満足をおぼえるのであった。それらの隠れがのうちでいちばん気にいったのは小抽匣の箪笥の横てであった。それは蔵のそばにある北むきの窓からさしこむ明りにだけ照される最も陰気な部屋であったが、その窓と箪笥のあひだにちょうど膝を立てたなりにすぽんとはまりこむほどの余地があった。私はそこに屈んで窓硝子についた放射状のひびや、ぢきそばにある榧(かや)の木や、朽木にからんだ美男葛、美男葛の赤い蔓、蔓のさきに汁をすふ油虫などを眺めてゐた。さうして半日でも一日でもひとりでぼそぼそなにかいひながらいつとはなしに鉛筆でひとつふたつづつ箪笥に平仮名の「を」の字を書く癖がついたのが、しまひには大きいのや小さいのや無数の「を」の字が行列をつくった。そのうち私があんまりそこへばかりはひるのを父が怪んでその隅をのぞいたため忽ちくだんの行列を見つかったが、父はただ手もちぶさたの落書だと思って 手習ひするならお草紙へしなければいけない といったばかりでひどくは叱らなかった。併しそれはゆめさらただの落書ではなかったのである。平仮名の「を」の字はどこか女の坐った形に似てゐる。私は小さな胸に、弱い体に、なにごとかあるときにはそれらの「を」の字に慰藉を求めてたので、彼らはよくこちらの思ひを察して親切に慰めてくれた。
 こちらへこしてからも私は三日にあげず怖い夢に魘(おそ)はれて夜(よる)よなか家ぢゆう逃げまはらなければならなかった。そのひとつは、空中に径一尺ぐらゐの黒い渦巻がかかって時計のぜんまいみたいに脈をうつ。それが気味がわるくてならないのを一所懸命こらへてるとやがてどこからか化け鶴が一羽とんできてその渦巻をくはへる といふので、もうひとつは、暗闇のなかでなにか臓腑のやうにくちゃくちゃと揉みあってゐる。と、それが女の顔になって馬鹿みたいに口をあけはなし、目をぱっとあいて長い長い顔をする。かと思へばその次には口をつぶって横びろくし、目も鼻もくしやくしやに縮めて途方もないぴしやんこな顔になる。そんなにして人が泣きだすまではいつまでも伸び縮みするのであった。そのやうに魘はれてばかりゐるのは伯母さんのお伽話のせゐだらうといふ疑がおこったのと、ひとつにはまた寐間をかへてみたらといふので私は父のそばに寐ることになった。が、毎晩父が話してくれる宮本武蔵や義経弁慶なぞの武勇譚もなんのかひもなく、化けものはおやぢぐらゐは屁とも思はずに相変らずやってきた。先の寐間には床の間の天井に魔がゐたが、こんだの部屋では柱にかかった八角時計が一つ目になり、四本の障子が大きな口になってみせた。

四十九

 そのころ西隣へ縫箔ぬひはくを内職にする家がこしてきてそこの息子の富公といふのがあらたに同級になった。彼はさっぱり出来ない子だったが口前がいいのと年が二つも上で力が強いために忽ち級の餓鬼大将になった。で、自然私はこれまでのやうに権威をふるふことができないばかりか体面上さうさう頭をさげてゆくこともならず、ひとり仲間はづれのかたちになってしまった。彼は近処に友達がないもので学校から帰ると私を誘ひにきて裏で遊ぶ。私は彼をあんまり好かないのとお蕙ちゃんと遊びたいのが山山なのとでちつとも気がすすまなかったけれど、その反感をかふのを懼れてせうことなしにつきあってゐた。もともとおてんばの好きなお蕙ちゃんは私たちの遊びを垣根ごしに面白さうに見てたが終には自分も出てきて見やう見まねに縄とびや箍まはしなどをやるやうになった。如才ない富公は お嬢さん お嬢さん と機嫌をとって、さかだちをしたり、筋斗とんぼがいりをしたり、いろんな芸当をやってみせる。そんなことの大好きなお蕙ちゃんは 富ちゃん 富ちゃん と彼のあとばかり追ってあるく。伯母さんひとりの手に育てられてお国さんとばかり遊んでた私は修業がつまないのでとてもそんなはなれわざはできず、器量わるくも富公がこの小女王の寵幸をほしいままにするのを指をくはへて見てるよりほかはなかった。
お蕙ちゃんは晩に家へきても富公の話ばかりして私が機嫌をとるためにもちだす絵本や草双紙なぞ見むきもしない。三人で遊んでるときにも富公がいい気になってひとのことを下手つくその意気地なしのといへばいっしょになってばかにする。さかだちも筋斗がいりもできない芸なしに自分をしつけた伯母さんが今さら怨めしい。そんなで私は富公がいやでならないのをじっと虫を殺して逆らはないでたがその堪忍も終に緒がきれて、あるときあんまりなことをいふのをむつとして口返しをしたら彼はさんざ口ぎたなく罵ったあげくお蕙ちゃんに耳つこすりをして意味ありげにひとをしり目にかけながら
「あばよ、しばよ」
といってさっさと帰りかけた。それをお蕙ちゃんまでがまねをして
「あばよ、しばよ」
といひいひあとについていってしまった。自分のとこへつれてったのにちがひない。それからお蕙ちゃんはばったり来なくなった。たまに顔をあはせてもにこりともしずに隠れてしまふ。富公が意地をつけたのだ さう思へば私は小さな胸に煮えかへるほどの嫉妬と憤怒をおこさずにはゐられなかった。学校でも彼はみんなをけしかけて私ひとりをちくちくといぢめる。私はさうした口前はもとより腕力に於ても確に彼に一目おかねばならぬ。で、今は纔(わずか)に自分が首席であるといふことだけがせめてもの慰めであった。とはいへそれもお蕙ちゃんなくしては畢竟ただの空位にすぎないではないか。

後編

 中沢先生は気のやさしい人だったけれど随分な癇癪もちで、どうかしてかつとすれば教鞭でもってぐらぐらするほどひとの頭をぶったりした。それでも私は先生が大好きで、御苦労にも家の庭にある棕櫚の枝をとっては痛い思ひをするために新しい鞭を先生に与へた。すると先生はいつもにやにや笑ひながら
「ありがたう。頭をたたくにはこれがいちばんだ」
といってひとつたたくまねをしてみたりする。私はなにひとついふことをきかず勝手気儘にしてたのでよつぽどもてあましてるらしかったが、やっぱり可愛がってるのだとこちらひとりできめてゐた。みんなの行儀がわるいためにれいの癇癪がおこって先生の顔が火の玉みたいになると生徒たちは縮みあがって鳴りをしづめてしまふ。そんな時でも私は平気の平左で笑ひながら見てるものである日先生は見まはりにきた校長さんに私のことを 無神経でしやうがない といってこぼした。校長さんは傍へきて自分の噂を面白さうにきいてる私に
「先生が怖くないか」
ときいた。
「いいえ、ちつとも」
私は答へた。
「なぜ怖くない」
「先生だってやっぱり人間だと思ふから」
二人は顔を見合せて苦笑ひしたきりなんともいはなかった。私はその頃から鹿爪らしい大人の殻をとほして中にかくれてる滑稽な子供を見るやうになってたので一般の子供がもってるやうな大人といふものに対する特別な敬意は到底もち得なかったのである。

 私にとって更に不仕合せなのは新任の丑田先生とさっぱり気のあはないことであった。この人は柔術ができるといふので生徒にも恐れられ、自分でも得意になって相手もなしにひっくり返ってみせたりしたが、いつぞや図画の試験に私のかいた瓢箪を 先生よりうまい といって三重丸をつけてくれたほかになにひとつ感心するところがない。こちらがさきを嫌ひであるとほりたぶんさきもこちらを嫌ってたのであらう。いつとはなしにお互に敵同士みたいな具合になってしまった。
 それはそうと戦争が始まって以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちゃんちゃん坊主でもちきってゐる。それに先生までがいっしょになってまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちゃんちゃん坊主をくりかへす。私はそれを心から苦苦(にがにが)しく不愉快なことに思った。先生は予譲(よじやう)や比干(ひかん)の話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。それをまたみんなはむきになって眼のまへに不倶戴天のちゃんちゃん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張って雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。私はこんな手合ひと歯(よはひ)するのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌った。また唯さへ狭い運動場は加藤清正や北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちゃんちゃん坊主にされて首を斬られてゐる。町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかってゐる。耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。ある時また大勢がひとつところにかたまってききかじりの噂を種に凄(すさま)じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といった。この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであったが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心(てきがいしん)はもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶってひとりの奴は仰山に
「あらあら、わりいな、わりいな」
といった。他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすってみせた。もうひとりは先生のまねをして
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
といふ。私はより以上の反感と確信をもって彼らの攻撃をひとりでひきうけながら
「きっと負ける、きっと負ける」
といひきった。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼって相手の根拠のない議論を打ち破った。仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。万国地図ものぞいてはゐない。史記や十八史略の話もきいてはゐない。それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて
「先生、□□さんは日本が負けるっていひます」
といった。先生はれいのしたり顔で
「日本人には大和魂がある」
といっていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵った。それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて
「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正や北条時宗がゐれば支那にだって関羽や張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈った話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだってそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」
そんなことをいって平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやったら先生はむづかしい顔をしてたがややあって
「□□さんは大和魂がない」
といった。私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった。忠勇無双の日本兵は支那兵と私の小慧(ざか)しい予言をさんざんに打ち破ったけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかった。
それやこれやでみんなといっしょになってるのがばからしいといふ気になり、いつとはなしにこちらから遠ざかって、いつもはたからそのばか騒ぎを嘲笑的に見てるやうになった。ある日のことひとり廊下に立って幾年となく腕白どもの手にすられててらてらになった手すりに肱をかけ、藤棚のしたにとびまはる彼らのしわざを眺めて笑ってたとき後ろを通りかかったひとりの先生が不意に呼びかけて
「なにを笑ってる」
といった。私は
「子供たちの遊ぶのがをかしい」
と答へた。先生はふきだして
「□□さんは子供ぢやないか」
といふのをまじめで
「子供は子供でもあんなばかぢやない」
といったら
「困るねえ」
といって教員室へはひってほかの人たちに話してゐた。私はたぶん先生たちに困られてたのである。

 同級の生徒はどれもこれもしやうのない三太郎としてばかにしきってたにもかかはらずその三太郎の隊長ともいふべき蟹本さんには心からませた同情をよせてゐた。彼はほとんど白痴の子で、背たけからみればもう十六七でもあったらうか。なんでも同じ級に二三年ぐらゐゐては次第に上へ押しあげられるうちそのとき後からあがっていった私たちとちょうどいっしょになったのである。もとより自分の齢(とし)もしらないし、ばかの癖でまだほんのたわいのない顔をしてるので彼がいくつになるのかは誰も知らなかった。彼はふくぶくしい丸顔の頬についたそら豆大のほくろを看板に学校ぢゆうの愛嬌者になってたが、ひとが面白半分に
「蟹本さん、頬ぺたに墨がついてるよ」
といふと ふ、ふ、ふ と笑って
「すーみーぢやーなーいーんーだ。ほーくーろーなーんーだ」
とおほやうにいふ。彼は体とつりあはない小さなそろばんの珠のひとつもないのをはすつかひにかけ気の向いたときにぶらりとやってきて、いやになればお稽古ちゆうもなにもおかまひなしにさっさと帰ってしまふ。とかく己と段ちがひの劣弱者のみを愛憐するといふ人間一般のさもしい利己的な同情のもとにあって天下に蟹本さんぐらゐ自由の天地をもってるものはなかった。それでも生きてるかひには機嫌のいい日と悪い日があり、悪い日には大抵顔を見せないが、たまさか出てきてもにこりともしずに机にうつむいてゐる。そのうちなにを考へだすのか急においおい泣きだして、思ふ存分泣きつくすまではどうしても泣きやまない。さうしてその不幸な暗黒の胸に人しれず湧いて溜った悲しみを遠慮のない大声に泣き涸らしてしまへばれいのそろばんを肩にかけてけろりとして帰ってゆく。そんな日にはどうかして言葉をかける者があっても不仕合せな一徳の気のよささうな笑ひ顔もせず ひぎやあ と鸚鵡みたいな声を出して相手を追ひはらふのが常であった。併しどうかして御機嫌の麗しいときには頼みもしないのに
「あたいが馬になってやらう」
なんといふこともあったが、馬としては背は高し、力はあり、ぶくぶく太って乗り心地のいい名馬だったけれど、気がむかなくなると大将同士の組み討ちの最中でもなんでも棒立ちになってしまふ手のつけられない悍馬でもあった。
 彼の奥底のしれぬ沈黙、その沈黙の底から溢れだす涙、私はどうかしてその正体をつかまへようといふことを思ひたって、それからはみんなの笑ふのもかまはず努めて彼に近づくやうにした。私は彼の機嫌のいい折をみては おはやう とか さやうなら とかいふ短い挨拶の言葉をかけてみたが、さきは帝王が臣下に対するほどの会釈もかへさない。それでもかまはず倦(う)まず撓(たゆ)まずつづけるうちある日彼は虱のやうにへばりついてる席をはなれひよこひよことそばへきてれいの舌たらずみたいに
「□□さーんーはーいーいーひーとーだ」
といふなり ふ、ふ、ふ と笑っていってしまった。私にはそのひと言が飛びたつほど嬉しかった。彼のいふことには微塵も嘘はない。すでにそのじぶん人の言葉には嘘のあることをあまりに多く知りすぎてた私にはたわいもない気まぐれなそのひと言がしみじみと身にしみて、きっと友達になれるだらう、さうしてこの気の毒な人を慰めてやることができるだらう と、もうその暗黒の扉の鍵が手に入ったかのやうに喜んだ。で、私は 今日こそ と思って隣の席へいってなにかと話しかけてみたがにやにや笑ふばかりでさっぱり埒があかない。そのうち彼は黙りこんで机にうつむいてしまった。と、やがてのことに奥の手をだして ひぎやあ と見事な一喝をくはした。日ごろの苦心も鸚鵡のひと声にまんまと水の泡になった。蟹本さんは私のやうに望ましい連れがないゆゑに余儀なくひとりでゐるのではなくてはじめからほんとになんにもいらない人なのであった。

 家のまはりには切りのこした桑の木があったので慰みかたがた子供たちの実地教育にもなるといふ父の考から近処ですこしばかりの種をわけてもらって蚕をかったことがあった。母や伯母は面倒だ面倒だといふものの実はいくらか得意で、もう大丈夫二度とくることのない昔の労苦を思ひだして楽しみながらいそいそと桑をきざんでやる。はじめはただ葉のしたにかくれてるのが日に日に大きくなり坊主頭をふりたててはじからくひかいてゆく。私も小さな羊羹の函に五六匹いれてもらって、伯母さんがお蚕様はもとお姫様だったなぞと教へたもので寐るときにはちゃんと御機嫌ようをし、朝はまたおはやうをして、留守の世話をよくよく頼んで学校へゆく。さて帰ってくれば姉は手拭をかぶって前垂の両端を帯にはさみ、私は笊をかかへて桑つみにでかける。さうして指の先を黒くしながら手のとどくかぎりうまさうなのをよってつみつこをする。冷い唇からはきだす糸の美しいつやが仇となって遠い昔から人の手にのみ育てられたこの虫は自ら食を求めようとはせず蓆のうへに頭をならべておとなしく桑の葉のふりまかれるのを待ってるのを伯母さんは
「お姫様だったげなでこのお行儀のええことはの」
とさもほんとらしくいふ。青臭いのも、体のつめたいのも、はじめのうちこそ気味がわるかったがお姫様だとおもへばなにもかも平気になり、背なかにある三日月がたの斑文(はんもん)を可愛らしい眼だと思ふやうになった。お姫様は四たびめの禅定から出たのちには体もすきとほるほど清浄になり、桑の葉さへたべずにとみかうみして入寂(にふじやく)の場所をもとめる。それをそうつと繭棚にうつすとほどよいところに身をすゑ、しづかに首をうごかして自分の姿をかくすために白い几帳を織りはじめる。最初はただ首をふるやうにみえるのがいつとはなしにほのかになり、神通力をもって梭もなしに織りだした俵がたの几帳ばかりがころりころりと繭棚にかかる。私はおいてきぼりになった気もちでいつまでもとっておくといってきかないのを母と伯母とでさっさともぎとって鍋で煮る。さうしてうす黄色く濡れた糸をくるくると枠にまくと几帳が無惨にほごされてしまひに西(にし)どつちの形した骸(むくろ)がでる。それを兄は餌箱にいれて釣り堀へとんでゆく。お姫様の夢はかやうにしてさめ、糸は機屋へおくられてをかしげな田舎縞が織られた。
羊羹函にできたいくつかの繭は種にするために残されたが、私の心がその几帳の奥にまでとどいたのか、それともお姫様が光りかがやく夏の世をすてかねてか、まもなく彼女はまっ黒な眼のうへに美しい眉をたて、新しい歓びにふるへる翅さへもって昔の俤をしのばすやうな可愛らしい姿をあらはした。さうして右に左に輪をかくやうにして睦びあふ伴侶をもとめてあるくのを私は竹のなかから出た人よりも珍しく眺めてゐた。蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵をうむのをみて私の智識は完成した。それはまことに不可思議の謎の環(わ)であった。私は常にかやうな子供らしい驚嘆をもって自分の周囲を眺めたいと思ふ。人びとは多くのことを見馴れるにつけただそれが見馴れたことであるといふばかりにそのままに見すごしてしまふのであるけれども、思へば年ごとの春に萌えだす木の芽は年ごとにあらたに我らを驚かすべきであったであらう、それはもし知らないといふならば、我我はこの小さな繭につつまれたほどのわづかのことすらも知らないのであるゆゑに。
 その種が孵(かへ)ったときには桑の木もすくなくなってたし人手もなくてとてもそれだけの蚕をかふことができなかったので、家の者は ぢきに雀がくってしまふだらう といふ浅はかな考へから去年以来お姫様と兄弟になった私の留守のまにそのうちの半分ほどをこつそり裏の畑へすてておいた。それを桑つみにいった拍子にふいと私が見つけびつくりして飛んでかへり訳をきいたがみんなはなんのかのとはぐらかして相手にしようとしない。私はたうとう感づいて、どうか拾ひあげてかってやってくれと手をつかないばかりにして頼んだけれどどうしてもきいてくれない。とはいへ彼らの老獪な詭弁も到底単純無垢な子供の慈悲心をくらますことができないのをみ、彼らは終に慣用手段の大きな声でひとを嚇(おど)かしてしまはうとした。私はくやしさ憎さがこみあげみんなを睨みつけて気ちがひみたいに悪対(あくたい)をついたあげく裏へかけだして泣いてゐた。その時もし私に彼らをとりひしぐだけの力があったならば彼らを数珠つなぎにして雀の餌にしたであらう。それからは毎日頭が痛いといっては学校を早びけにして首をふって饑ゑを訴へてる兄弟に桑の葉をつんでやったが、脾弱いものどもは夜昼の寒さ暑さに堪へかねて毎日いくつかづつ土にまみれてゆく。
雨のふりだした夕がたであった。家からいくら呼ばれても帰らないので伯母さんが出てきてみたら私はすてられた蚕のうへに傘をさしかけて立ってるのであった。さうして顔を見るやいなやわつと泣きだしてその前垂にくひついた。仏性の伯母さんはどうかしたいのは山山なのだがどうもしやうがないものでお念仏をくりかへしながらやうやく賺してつれて帰った。その後家の者はそこに小さな胡麻石の碑がたてられそのうへに私の手で 嗚呼忠臣楠氏之墓 と書いてあるのを見出した。

 ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、とかく苦悩の多い早熟な私にとってこのうへもない慰藉となったのは絵をかくことであった。私は四条派の画に堪能であった大殿様からの拝領物だといふ粉本の巻物を父からもらってもってゐた。それは私の秘蔵の一軸であると同時に伯母さんにとってはお犬様や丑紅の牛といっしょにほいほいと持ちだして私の癇癪をしづめる虫おさへの妙薬であった。その巻物、鷺だの、鶴だの、松だの、日の出だの、美しい自然のなかでも美しいものの美しい姿ばかりを美しくかきよせたその巻物はさすがにまだ虚しく清らかであった私の胸をいひしらぬ夢と憧れの陶酔をもってみたしてしまふのであった。このじぶん私はもうそれらの絵を見るだけでは満足ができなかったので、そんなことがなにより嫌ひな兄の不機嫌を承知のうへでやつと家から買ってもらった安絵具――それは紺色のやくざなぼうる箱にたった八種ほどの絵具と一本の筆がはひって、箱のうへには獅子の跳ねてる商標がついてゐた。――と姉から譲られた筆洗を友として草双紙の透きうつしからはじめて粉本の絵のやさしいのを拾ひがきにかくやうになった。けれども誰ひとり教へてくれる者はなし、部屋にとぢこもって幾度も幾度もかきそこなひながらさんざ苦心をして、ひとつの線のひきかたも、ひとつの色のだしかたも、みんな自分ひとりでくふうしなければならない。併しながらこれは私にとっていはば自由な創造であった。猶太の神はあの万物の創造にあたって私が一羽の鳥、一輪の花をかきえたほどの満足を味ふことができたであらうか。赤と黄とで橙黄たうくわうを得たといふただそれしきのことさへが私を雀躍こをどりさせた。兄は案のぢやう大不機嫌で、折角よくできたのを机にたてて眺めてると傍へやってきてわざとめちゃめちゃにくさしたりしたが、そんなことは喜びと力にみちたこの小さな造物主の勇気を挫くことはできなかった。私は草双紙のおいらんやお姫様の著物の色を選み、またその顎のしたにひとつのすぢをいれ、眉のひきかたをちがへるなどいろいろと自分の好みをくはへて、そして昔の神様のやうに自分のこしらへたものを恋人にして大事に抽匣へしまっておいたりした。が、一方にその紙のうへに創造したこれらの美しいものを到底現実の世界には見出せさうもないといふことを思っては徒に気をいらだたせた。
 私はまた唱歌が大好きだった。これも兄のゐる時には歌ふことを許されなかったのでその留守のまをぬすんでは、ことに晴れた夜など澄みわたる月の面をじっと見つめながら静な静な歌をうたふといつか涙が瞼にたまって月からちかちかと後光がさしはじめる。をりをり姉のところへ遊びにくる声のいいお友達に教へてもらふことがあった。私は学校ではいちばん上手だったけれどその人のまろまろした声のまへにはただもう気おくれがして小さな声であとについた。それはお蕙ちゃんといつも遊んだ肱かけ窓のところであった。青桐の葉が風にさわざ、虫がないて、五位鷺の群ががっがっと鳴きわたる夜が多くあった。...

十六

 いい道づれのあったのを幸に伯母さんが先祖代代の墓参のため、またなにがなし生国の古い思ひ出が心を動してほんの暫くのつもりでこちらをたったのは何年か前のことであった。それが先へ行きつくと間もなくどつと煩ひついて一時はいけないとまでいはれたのが、寿命があったとみえてどうぞかうぞ本復はしたものの年が年ゆゑひどく身体が弱ってもう出てくることができなくなり、自分でも諦めて遠い縁家の留守番に頼まれることになった。
 可愛い子には旅をさせろといふ昔風な父の思ひつきから十六の年の春休みに私は持って生れた憂鬱症をなほすために京阪地方へ旅行をさせられた。それで病気がなほったかして私は家から呼びもどされるまでもいい気に遊びまはってたが、その帰りにいよいよのお暇乞ひのつもりで伯母さんのところを訪ねることにした。伯母さんの住んでるのは「お船手」といって旧幕時代に藩の御船手組のゐたといふ川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であった。で、なかなかちよいとには家がしれず、日の暮れるまでたづねあぐんだあげくとある荒物屋のむかひのお寺のやうな門のなかへはひっていった。そこには人が住んでるのかゐないのか、古びきってがらんとして、草一本もないかはりには木も一本もなく、赤裸でからからしてゐる。私はあけ放しの上り口に立って二三遍声をかけてみたがいっかう返事がない。知らない土地ではあり、夜にはなるし、心細くなってあたりを見まはしたときに左ての庭ともいへない二坪ほどの空地との境にある小さな木戸が目についた。そうつとあけて覘いてみたら汚い婆さんがひとり暗いのにあかりもつけず縁先で海老みたいにこごんで縫ひものをしてゐる。私は案内もなくよその庭先へはひったのに気がとがめて思はず一足あとへさがったけれど、もうほかにたづねるところもないので木戸のうへから身をかがめて
「ごめんなさい」
と声をかけた。婆さんは知らん顔して針をはこんでゐる。
「ごめんなさい」
聾なのかしら。荷物をさげてる手はさっきからぬけさうなのだ。たまらなくなって
「少少伺ひます」
といひながらずっとはひったらやつと気がついたらしくひよいと顔をあげた。暗いのでよくは見えないが、老いさらばって見るかげもなく痩せこけてはゐるが、それはたしかに伯母さんだった。私はただもうはつとしてその顔を見つめてゐた。伯母さんはあわてて仕事をかたよせ、縁側に手をつき畏った形になって
「どなた様でございます。この節ちょっとも眼がみえませんで」
「.........」
「耳もえろ遠なりましてなも」
「それでひと様に御無礼ばつかいたします」
こちらがいつまでも黙ってるものですこしのりだすやうにして
「どなた様でございます」
とくりかへす。私は胸一杯なのをやつとの思ひで
「私です」
といった。それでもまだ
「どなた様でゐらつせるいなも」
といってしげしげとひとを見あげ見おろししてたがなにはともあれ心やすい人にはちがひないと思ったらしく、立ちあがって奥の火鉢のそばにあった煎餅蒲団を仏壇のわきにしいて
「さあどうぞおあがりあすばいて」
と招じいれるやうに腰をかがめた。そのあひだに私はやうやく気をおちつけて笑ひながら
「伯母さんわかりませんか。□□です」
といったら
「え」
といって縁先へ飛んできて暫くは瞬きもしずにひとの顔をのぞきこんだあげく涙をほろほろとこぼして
「□さかや。おお おお □さかや」
といひいひ自分よりはずっと背が高くなった私を頭から肩からお賓頭盧様みたいに撫でまはした。さうしてひとが消えてなくなりでもするかのやうにすこしも眼をはなさず
「まあ、そのいに大きならんしてちょっともわかれせんがや」
といひながら火鉢のそばに坐らせ、挨拶もそこそこにもつと撫でたさうな様子で
「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで逢へんかしらんと思っとったに」
と拝まないばかりにして涙をふく。

十七

 伯母さんは古ぼけた行燈に火をともし
「ちょっと待っとっとくれんか、ちゃっとそこまでいってくるに」
といって足もとのわるいのをこぼしこぼし縁側からゐざりおりてどこかへ出ていった。私はひとりでぼつねんとしながら これが見をさめだな と思った。そして予想以上の伯母さんの衰へやう、知らぬまに自分が大きくなってたこと、昔のことなど考へてるうちにとことこと足音がして、伯母さんはひとりふたりのしらない人をつれてきた。それは今生きのこってる伯母さんの古馴染で、みんな近処に住んでお互に話し相手になってるのだといふ。伯母さんは嬉しまぎれに前後の見さかひもなく
「東京から□さがきたにちゃっといっぺん来てちょうだえんか」
といって呼び集めてきたのである。これらの用のない、気楽な、気のいい人たちはつねづねいやになるほどきかされてる「□さ」とはどんな子かしらといふ多少の好奇心をもってやってきたのだが、その評判の「□さ」もやっぱりあたりまいの子供であるのをみ、親切にもまた家へとってかへして砂糖をたっぷり入れたもろこしせん餅の火にあぶればくるくるねぢくれて手におへないやつを沢山もってきて焼いてくれた。私が飯まへなのに気がついた伯母さんはみんながかはりに行かうといふのをそれが自分の幸福な特権であるかのやうに剛情をはり定紋つきの小田原提灯をさげて菜(さい)を買ひに出ていった。そのあとで私は人たちから この家の女主人は娘の嫁入先へもうながいこと手伝ひにいってるのを伯母さんがひとりで留守をしてるといふこと、厄介になるのが気がせつないといって見えない眼で家の仕事をしてるのだといふことなどきいてるうちに伯母さんは息せききって戻ってきて台所に豆らんぷをつけ、ことことと晩飯の支度をしながら東京の誰かれの様子をたづねたりする。みんなはいい頃あひをみて帰っていった。伯母さんは
「こんなとこだでなんにも出来んにかねしとくれよ」
と申訳なささうにいって大きな寿司皿を私の膳のそばにおき、こんろにかけた鍋のなかからぽつぽつと湯気のたつ鰈を煮えるにしたがってはさんできて もういらない といふのを
「そんなことはいはすとたんとたべとくれ」
といひながらたうとうづらりと皿一面に並べてしまった。気も転倒した伯母さんはどうしてその歓迎の意を示さうかを考へる余裕もなく魚屋へいってそこにあった鰈を洗ひざらひ買ってきたのであった。私は心から嬉しくも有り難くも二十幾匹の鰈を眺めつつ腹一杯に食べた。
伯母さんは後でさはりはしないかと思ふくらゐくるくると働いて用事をかたづけたのち膝のつきあふほど間ぢかにちよこんと坐って、その小さな眼のなかに私の姿をしまってあの十万億土までも持ってゆかうとするかのやうにじっと見つめながら四方やまの話をする。私は そんなに眼がわるいのに仕事なんぞしないでも といってさんざとめたけれど
「なんにもせすとひと様の御厄介になるが気がせつないで」
といってどうしてもきかない。私は伯母さんが家にゐたじぶんのことを思ひだし汚い針山から一本の木綿針をぬきとってあしたの仕事のために糸をとほしておいた。で、疲れてもゐるし、伯母さんの体のことも気づかって間もなく床についたが、伯母さんは お阿彌陀様に御礼を申しあげる といって、お仏壇のまへに敬虔に坐って見おぼえのある水晶の数珠を爪繰りながらお経をあげはじめた。ちらめく蝋燭の光に照されて病みほうけた体がひよろひよろと動くやうにみえる。四王天清正の立廻りをしてくれた伯母さん、枕の抽匣から目ざましの肉桂棒をだしてくれた伯母さん、その伯母さんは影法師みたいになってしまった。伯母さんはやうやくお経をすませ、お仏壇の扉をたてて隣の床にはひりながら
「いつやらひどう煩った時はまあこれがこの世の見納めかしらんと思ったに、寿命があったとみえてまたかうやって娑婆ふたげになつとるが、この年まで生きたでいつお暇してもええと思っていつも寐るまへにはお膝もとへお招きにあづかるやうにお願ひ申しては寐るが......」
私が夜著をかけるのをみて
「寒いことないかえ、風ひいとくれるとどもならんが」
「....」
「朝目がさめるとさいが おお おお また命があったわやあと思ってなも......」
話はいつになっても尽きさうになかったが私は程よくきりあげて眠りについた。私たちは互に邪魔をしまいとして寐たふりをしてたけれども二人ともよく眠らなかった。翌朝まだうす暗いうちにたった私の姿を伯母さんは門のまへにしよんぼりと立っていつまでもいつまでも見おくってゐた。
 伯母さんはぢきになくなった。伯母さんはながいあひだ夢みてゐたお阿彌陀様のまへに坐ってあの晩のやうな敬虔な様子で御礼を申しあげてるのであらう。

おわりに

いかがだったでしょうか。大人になってから読み返すと、忘れていた感情や情景が鮮やかに蘇ってくるのが『銀の匙』の素晴らしいところです。ここで紹介したのはほんの一部ですので、気になった方はぜひ全編を通して読んでみてください。

【引用・出典について】

本記事内で引用した『銀の匙』の本文は、著作権保護期間が満了したパブリックドメイン作品であり、インターネットの電子図書館「青空文庫」で公開されているテキストを使用しています。テキストの入力・校正にご尽力されている青空文庫のボランティアの皆様に感謝いたします。
  • 作品名:銀の匙
  • 著者:中 勘助
  • 出典:青空文庫
  • 備考:読みやすさを考慮し、青空文庫の元テキストから一部表記を改変して引用しています。